
第一回 おかあさん寺田さん火坂先生
2003年の六月のこと、東京駅のホームで四人の一行が待ち合わせた。ゆかりの地のひとつ上越市取材に集まったのは、私、文芸事務所三友社の寺田弘さん、NHK出版の河野逸人さん、そして火坂雅志先生である。
寺田さんは私の東京のおかあさんこと、和可菜(山田洋次監督が「寅さん」を書かれた神楽坂のホン書き旅館)の女将さん和田敏子さんと神楽坂の大ファンというご縁で知り合った人物である。かつて地方出身のミス日本は、コンテスト代表の和田静郎氏のご親戚である和田敏子さんが経営する和可菜を常宿にしており、たまたまだったのだろうが、「朝お布団をたたんでいたのは麻美ちゃんくらいだった」ということでかわいがっていただくようになった。そのおかあさんに寺田さんは以前から「麻美ちゃんが一人前になるまでは死ねない」といわれ続けていたらしい。
寺田さんが新聞に小説などを配信するお仕事をなさっていることはおききしており、何か他の小さな仕事でもあればと、作品のファイルをお渡ししていたが、まさか小説挿画を描かせようと思われるなど思ってもみなかった。だから、ある有名な脚本家の先生が京都新聞で連載をお始めになるとき、わたしの絵を候補にあげたら断られたと聞いたときは、びっくり仰天、何ということを、と思ったくらいのことであった。
ところがほどなくして「麻美さん、火坂雅志という作家の連載で新潟日報などに描いてもらえますか」ということになってしまった。「その先生は私でよろしいのですか」とお尋ねしたが、「いいですよ」と快諾されたという。あのときお断りしていたら、とのちに何百回思ったかしれないが、大河ドラマ化が発表されたとき、その思いは最大級になり、それからの幸運な経験と綾織りに稀有な修行の道が拓かれていったのである。
東京駅で初めてお会いした火坂先生は洋装であった。春日山城を登るためである。洋装の先生を見たのはそれが最初で最後、受容力大いなる先生は、今では遠い雲の上のお方になってしまわれた。